スター誕生!
覚えていますか?
スター誕生!(スターたんじょう!)は、1971年10月3日 - 1983年9月25日の間、日本テレビ製作の視聴者参加の歌合戦形式の正統派オーディション番組。略称はスタ誕(-たん)。
番組の企画者は、審査員の一人でもある阿久悠で、番組のタイトル命名はチーフプロデューサーの池田文雄である。明日のスターを夢見る人のためのオーディション番組であり、毎週、厳しい予選を勝ち抜いてきた5〜7人程度の挑戦者が歌で実力を競う。同じネット局のよみうりテレビ「全日本歌謡選手権」、兄弟番組である、日本テレビ「お笑いスター誕生!!」と共にまさに実力勝負が要求される正統派のオーディション番組であるために、猛烈な審査の厳しさ、審査員の辛口批評、そして、合格の瞬間、TBS「日本レコード大賞」のように大号泣する挑戦者も当然多い。
ジャンルは基本的にアイドルであるが、もちろん、演歌も問わない。歌う曲は持ち歌のヒット曲でかまわない。
司会者
初代: 萩本欽一 - 1971年10月3日〜1980年4月6日(当時、萩本にとってはコント55号で人気絶頂期のころだったが、初めてのソロ活動となり、なおかつ、司会は初めての経験である。その後の萩本が主演のレギュラー番組にも結びついてくる。萩本は司会に起用されると「僕、司会なんてしたことないの」と語っていた。萩本を起用した理由は「人柄の良さ」「アットホームさ」を見て起用したと言う。要するに、不合格者に対しても、暖かく見守っていたことでもある)
2代: 谷隼人(出演当時は「岩谷隆広」と名乗っていた)・タモリ(兄弟番組である、「お笑いスター誕生!!」でも審査員としても出演していた) - 1980年4月13日〜1981年4月5日
3代: 坂本九・石野真子 - 1981年4月12日〜1982年1月3日(石野は一時芸能界を引退したため1981年9月6日放送分で降板)
4代: 横山やすし・西川きよし - 1982年1月10日〜1983年9月25日(当初は西川が単独で務めた。やすしは1982年10月24日放送分から登場)
この番組でデビューのきっかけを掴んだタレントの活躍は芸能界地図を塗り替えるきっかけとなった。テレビの草創期から1970年代まで「ナベプロ王国」と称される黄金時代を築いた芸能事務所・渡辺プロダクションがその絶対的な地位を失ったのは、ホリプロダクション、サンミュージック、田辺エージェンシーが力をつけたためであり、それら新興プロダクションへのタレント供給源となったのがこの『スター誕生!』だった。だが、ゲストとして渡辺プロ所属のタレント達が出演していた時期もあり、最初期のアシスタントを務めたザ・シュークリームは渡辺プロ所属であった。韓国で開催された予選にも当時渡辺プロ所属だった森進一がゲストとして出演した。第6回決戦大会頃までは番組に関わっていたようである。やがて、これに対抗するため渡辺プロは1973年より独自にオーディション番組である、『スター・オンステージ あなたならOK』をNETテレビ(現・テレビ朝日)で放映開始する。
ところが『あなたならOK』の放映日時となった月曜日の夜8時という時間帯は日本テレビが『紅白歌のベストテン』を放送しており、これに渡辺プロの歌手も出演していたため、テレビの芸能史上に残る日本テレビと渡辺プロの間での戦争が起こったのである。『あなたならOK』は失敗に終わり、長寿番組となった『スター誕生!』からは、山口百恵、桜田淳子、森昌子の中三トリオに代表されるように低年齢のタレントが輩出。1970年代から1980年代にかけて素人っぽさを売りとするアイドル歌手全盛の時代を迎える。これが、譜面が読め歌唱力もある教育された大人のタレントを多く揃えた渡辺プロを脅かしたのだった。その後、38回決戦大会の前後ぐらいから番組には再び関わりはじめ、最終的に、渡辺プロはスタ誕から、松本明子をデビューさせた。
この番組が元で後に“雨後の筍”の如くオーディション番組が作られ『スタ誕』復活を望む声もあったが、中三トリオを仕掛けた堀威夫(ホリプロ創業者、現・取締役ファウンダー)は後のインタビューで「当時は3分で作れるカップ麺が受けた時代だから昨日の素人がアイドル、スターになれる番組が受けた。今は高い金を出して並んででも美味しいものを求める時代だからもう最大公約数を求めるテレビはスターを作る番組は作れないだろう。」と沈着な感想を述べていた。
予選会
出場希望の葉書が殺到したため、毎週約500〜1000人に絞り、東京都内の読売会館(百貨店・そごうの有楽町店が入っていたビル。現在はビックカメラ有楽町店本館が入っている)7、8階のよみうりホールで予選会を行っていた(地方で公開録画がある場合は、放送している系列局で)。このため、日曜日のそごうの階段は、応募者の長蛇の列であふれ返っていた。
応募者は、自ら持参した歌本(楽譜)を横森良造に提出し、横森のアコーディオン(場合によってはピアノ)の伴奏で歌う。
一次審査は、応募者は四小節までしか歌えない。歌詞を忘れたり、歌い始めたと思ったら、ブザーが鳴ってしまったことも多かったという。この大人数の中から50人に絞り、同じ方法で二次審査を行う。二次審査ではさらに30人に絞られていく。当然ながら一次と二次の失格者はその場で“お帰り”となった。
最終審査では、30人は1コーラス歌う時間を与えられる。そして、最終的にテレビに出場できる(本選進出者)14人(時期により変動がある。詳しくは本選と審査方法の欄を参照)が決定する。
萩本欽一〜谷隼人&タモリ時代
本選、つまりテレビに出場できるのは1回7人(組)まで(両代とも後期は5人に削減された=予選会の二次→最終審査は20人→10人)。
スタンドマイクの前に立って一人1曲、1コーラス歌い、審査を受ける。
結果発表の時、挑戦者の頭上に4桁の電光掲示板がある(舞台の下手=左側。下段が1〜4番で上段が5〜7番だが、野外での収録や5人のときは並列になっていた)。会場の一般審査員と5人のプロフェッショナル審査員の合計点数が表示される。規定の250点(5人時は300点)に達すれば合格(満点は1000点=会場500点+プロ500点(プロの持ち点は各自100点))。余談だが規定の300点時代の頃、305点でしかもギリギリラインで合格した挑戦者も多数いた。
最初は会場から手元のスイッチで“投票”する(萩本、谷&タモリが「まずは、会場の500点から、どうぞっ!!」と大絶叫する。その際にはファンファーレが鳴る。ボード上の数字はライトブルー(初期は豆電球=ドット式)で回転。まれに会場の段階で合格者が出ることもある(このとき、数字は赤に変わり<ブラウン管と同じ原理>、外周の赤い豆電球が時計回りに回転。目の前のパトライトが回転して合格を知らせる))。続いて、不調和で緊迫感のあるドラムロールの音が鳴りプロの点数が加算される(萩本、谷&タモリが「さあ、審査員の先生方の500点が伸びます!どうぞっ!!」と大絶叫する。数字が回転するのと同時に豆電球が回転。会場の段階での合格者もプロの点数は加算されるが、豆電球とパトライトはそのままで、数字は赤で回転する。失格の場合は点数の低い順から豆電球が消える。合格の場合、豆電球は回転したままで、数字が赤に。パトライトが回転)。
合格の際、得点ボードが赤く付き、パトライトが回転した瞬間、ど迫力あるファンファーレが鳴り、萩本、谷&タモリが「○番の方、合格で〜す!!」とど迫力ある大絶叫をする(まさに、スポーツ中継の実況アナウンサー<例えば元NHKのスポーツアナウンサー島村俊治>や、クイズ番組の司会者<例えば「アップダウンクイズ」の小池清>のようなものである)。決定の瞬間、「合格!!おめでとう!!○番 ○○サン」の字幕スーパーがでかでかと出る。
谷&タモリ時代の5人時は、審査基準を歌唱力と個性に重点を置くため、会場の審査を歌っている最中に行っていた(舞台の中央(バンドボックス)左側にデジタル式の電光掲示板を設置し、画面の左下に緑のデジタル表示(クロマキー)を出していた)。
合格者は、日本テレビ音楽学院(現・日テレ学院タレントコース)の入学案内書と副賞の奨学金が贈られ、紺のブレザーコートが羽織られる。最後はバンザイをして締めくくる。
全員失格だった場合、萩本時代は「バンザ〜イ、無しよ!」とおどけたポーズをとって締めくくった。これも萩本のあたりギャグのひとつになったが、くしくもそのギャグは1991年4月〜9月に放送された「一攫千金!!スーパーマーケット」の司会で萩本の弟子でもある小堺一機がミリオンチャンスで失敗した時にも使っていた。なお、谷&タモリ時代は「ゴメン!」の一言だけ、坂本時代は「残念」だった。
[編集] 坂本九・石野真子時代
本選は1回8人まで(予選会の二次→最終審査は30人→16人)。
二部構成で、パート1は8人がメドレー形式で歌い、100人の観客が審査する(持ち点は各自1点)。点数の高い5人(途中から4人に削減)がパート2へ。
パート2はハンドマイクで一人1曲、1コーラス歌い、プロの審査を受ける(歌う曲目はパート1と異なる)。
結果発表の時、舞台に巨大なデジタル式の電光掲示板(挑戦者が座っている)が登場(兄弟番組である、「お笑いスター誕生!!」の審査結果発表の際に出るカプセルが登場するのと同じようなもの)。5人の審査員の点数が一人ずつ個別に表示される。不調和で緊迫感のあるドラムロールが流れながら、坂本が「〇〇先生、得点どうぞ〜っ!!」と大絶叫しながら言う。持ち点は1人60点が基準で(クリアすれば赤い豆電球が回転)、5人の合計が300点に達すれば合格(豆電球が上下を取り囲んで回転し、目の前のパトライトが回転)。当然、坂本も「〇点、おめでとう〜っ!!」と大絶叫をする。
中森明菜はこの時代(本選3回目の挑戦だった)に合格(点数は、阿久悠: 75、森田公一: 70、都倉俊一: 85、松田敏江: 63、中村泰士: 99(本当は100点満点をつけるつもりだったが、ボードは2桁までしか入らないため99点とした)合計392点。この形式になってからは史上最高得点である)。[2]
合格者には中規模のトロフィーが授与された(初めてトロフィーが登場する<但し、決戦大会の時は初代の萩本時代から大規模のゴールデントロフィーを出している>)。
同代から「スター誕生!」の番組名ロゴ及び、テーマ曲が変更されている。
なお、坂本九はナベプロの影響の強いマナセプロのタレントであり、彼を司会に起用したことについて日テレがナベプロとの和解を模索したと評されている。EDでは坂本の名曲「上を向いて歩こう」を坂本が歌っていた。これは合格者・不合格者が前向きに頑張って貰いたいと言う願いから、坂本の名曲を起用した。
[編集] 西川きよし時代
本選は1回7人(放送時間短縮後は5人)が登場。一人1曲歌い、審査方法(坂本時代と同様に舞台に巨大なパネルが登場する<挑戦者も座っている>)は、不調和で緊迫感のあるティンパニロールが鳴りながらであり、挑戦者に一人ずつ10個の電光ランプ(星の形)が8個以上になると合格となり、決戦大会に進出となる。
決戦大会の審査方法が違うので、決戦大会の項目を参照。
[編集] 横山やすし・西川きよし時代
前期(1982年10月24日〜12月12日)
本選は1回15人が登場し、一人1曲歌う。審査は歌っている最中に行われ、結果は背後の大きな星型の電光掲示板が合格ラインに達すれば合格となり、自動的に決戦大会に進める。しかしやすきよ時代の決戦大会は1回しか行われなかった。詳しくは決戦大会の項目を参照。
後期(1983年1月23日〜最終回)
「全国選抜歌の選手権」のサブタイトルがついて、ルールが大幅に変更され、決戦大会をなくし、勝ち抜き制となった。一人1曲歌い、即座に審査結果が発表され、5人の審査員の合計が350点(持ち点は一人70点が基準)をクリアすると次の週に進める。そして、7週連続勝ち抜くとグランドチャンピオン(この回から「グランドチャンピオン」のフレーズが出てくる。それまでは通常大会や決戦大会でも単に「合格」であり、さらに決戦大会合格者の中からは「最優秀賞」と表現していた)となり、天井から紙吹雪が降る(風船は入っていない)。これは同じネット局のよみうりテレビ「全日本歌謡選手権」のルールとほぼいっしょだった。この回から、挑戦者がプロ・アマ問わなかった(プロにはなったものの、ヒット曲に恵まれなかった元プロ歌手も結構出場していた)。また、このやすきよの代から、再び萩本、谷&タモリ時代の番組名ロゴに戻る。
[編集] 決戦大会
1クール(3ヶ月)に1回、合格者が7、8人たまったところで、観客席に芸能事務所、レコード会社のスカウトマンを集めて行う。通常通り一人一曲、1コーラス歌い、審査員がコメントし、スカウトマンが質問する。審査員がここで優勝者を決定すれば、絶望的ではないのだが、ここでは審査員の手を離れ、スカウトマンに対し、スカウトしてくれるように呼びかける。「○番、○○です。一生懸命歌いました。よろしくお願いいたします」というフレーズは、多くの挑戦者が放った。スカウトマンの中には、元ザ・タイガースのタローや元ヴィレッジシンガーズのヴォーカル、清水道夫などが出演。
司会者の「どうぞ〜!!」の大絶叫による合図で、スカウトする意思があれば、会社の名前が書かれたプラカードを掲げる(特に萩本時代、なかなかスカウトマンがプラカードを揚げない状況が続くと「お願い、勝たせてあげてよ〜!」というセリフもよく出た)。規定では、たったの1社しか挙がらなくても合格として認められていたが、その後、会社の組み合わせができなければ保留扱い、または失格となる。もちろん、決戦大会進出者の中にも1社から指名されず、失格となって去っていく人もいた。そして、合格者(スカウトされた挑戦者)の中から1人「最優秀賞」が審査員から発表される。この方法は、よく言えばドラフト会議、悪く言えば人買いであり、実際に人買い批判もされたが、チーフプロデューサーの池田文雄は、「あれは素人に芸能界の厳しさを教えたかったから」と、インタビューで語っている。[1]
12年間の最高指名社数は、桜田淳子に対して過去最高記録の25社、山口百恵、新沼謙治、渋谷哲平に対して20社(ただし山口は最優秀賞にはならず)。森昌子-13社、伊藤咲子-11社、岩崎宏美-8社、清水由貴子-13社、ピンク・レディー-8社、石野真子-18社、小泉今日子-3社、中森明菜-11社、岡田有希子-4社。最少指名社数1社の人達:梶たか子、小川真代、神保美喜、朝田のぼる、久木田美弥、鯨井ゆかり、吹田明日香、松本明子。森昌子・桜田淳子・山口百恵の決戦大会出場時の映像は現存していない(桜田の秋田県予選大会出場=フィルム録画=と山口が出場した決戦大会の音声のみのテープ(東宝レコード「百恵ちゃんは足は太いほうですか」の質問に、「はい、太いです」と返答)と3人が出場した決戦大会の写真は存在)。
西川時代の決戦大会は「合格」または「失格」と書かれている紙を入れた封筒がテーブルに置かれ、挑戦者が結果を見て「合格」(「受かりました」と言う)ならば天井から紙吹雪が降り(ここから、紙吹雪を始めた。風船は入っていない)、「失格」ならばそのまま退場となる。この方式でスカウトされているのは、吹田明日香、松尾久美子、松本明子である。
やすきよ時代の決戦大会は2週に渡って行われた(1982年12月19日・26日)。パート1は全合格者が一人1曲歌うが、パート2に進めるのは10人である。パート2は10人が歌ったあと、スカウトマンが質問する。そして従来どおり、スカウトマンに対し、スカウトしてくれるように呼びかける。この方式でスカウトされているのは、岡田有希子、太田貴子、高橋美枝である。
決戦大会で合格してもデビューしなかった人達は数多くいる。10回決戦大会:1名、11回:1名、12回:1名、15回:1名、17回:3名(一人は最優秀賞受賞者)、19回:1名など。プラカードがあがっても、全てがデビューしたわけではない。
[編集] その他のコーナー
挑戦者全員の歌の審査が終わったあと、結果発表が出るまでの間、全挑戦者をリラックスさせるため、ゲストとともにいろいろなゲームを行っていた(特に萩本司会時代が有名で、「欽ちゃんと遊ぼう」コーナーと呼ばれており、「こっちむいてホイ!」「ドビン・チャビン・ハゲチャビン」「フルーツバスケット」「古今東西」「あなたにお名前差し上げます」等の数多くのゲームが生まれた。 )。このコーナーから、斉藤清六、黒部幸英(「欽ちゃんコーナー初代チャンピオン」、ニックネーム・クロベエ)、西山浩司らがブレイクした。また、谷&タモリ時代にも「欽ちゃんコーナー」と同じコーナーが行われていた(但し、タモリのみ出演)。
そして、決戦大会の合格者が出演し、萩本ら司会者の問いかけに答える形で報告する「スタ誕情報局」コーナーも設けられた。合格者の大半は、芸名とデビューの予定月日を告知する。
また、不定期的だが、番組出身の新人歌手を紹介するデビューコーナーがある。デビュー曲のタイトルと歌手名のオブジェをステージのセット(また、客席に小ステージを設けることもあった)として使い、新人歌手を大々的にアピールしていた。




